100年前、アメリカには「禁酒法」という法律があった
映画や小説の世界で、聞いたことがある人もいるかもしれません。密造酒やギャングのイメージが強いかもしれません。
実は、禁酒法時代に飲酒は合法だったことを知っていますか?
また、どのようなプロセスで「自由の国」アメリカで、禁酒法が成立したのか知っていますか?
この記事では、
- なぜ民主主義のアメリカで禁酒法が成立したのか?
- 禁酒法時代のアメリカはどのような雰囲気だったのか?
時代背景、文化的背景を踏まえて解説します。
タップできる目次
飲酒はOK!? そもそも、アメリカの禁酒法とは何か?
1920~1933年まで続いた禁酒法
アメリカの禁酒法は、1920年1月16日に執行され、1933年12月5日まで続きました。禁酒法の法的根拠となったのは、以下の憲法18条の修正です。
合衆国憲法修正第18条
- 第一節
本修正条項が批准されて一年を経過した時点で、アメリカ合衆国およびその管轄下におかれたすべての地域において、酒類(intoxicating liquors)を飲用目的で製造、販売、運搬すること、また国内はもとより外国へ搬出ならびに外国から搬入することは、ここにすべて禁止される。
- 第二節
連邦議会と各州議会は、共に適切な立法措置を講じることで本修正条項を施行する権限を有す。
- 第三節
本修正条項は、本憲法の規定にしたがい、連邦議会が各州に発議した日から7年以内に、各州議会による承認が得られない限り、効力は発生しない。飲用:禁酒法と民主主義(板倉聖宣 著)
のちほど解説しますが、重要なのは禁止されたのは「製造、販売、運搬」で飲酒自体は禁止されていなかったということです。
執行法としてボルステッド法(National Prohibition Act)が成立
上記の憲法改正をもとに、ボルステッド法が成立し、アメリカ合衆国全土で禁酒法が成立しました。1919年10月28日のことです。
正式名称は国家禁酒法(英語名:National Prohibition Act)です。
禁酒法成立の援助者であった、アメリカ合衆国下院司法委員長アンドリュー・ボルステッドにちなんで名づけられました。
妥協の産物? アルコールの製造、販売、運搬が禁止に。所有と飲用はOK
アメリカの禁酒法は「妥協の産物」と呼ばれることがあります。
なぜなら、禁酒法(ボルステッド法)は「飲酒」を禁止していないからです。禁止したのは、アルコールの製造、販売、運搬です。
つまり、お酒を作ったり、売ったり、輸出入するのは法律違反ですが、以前に買ったお酒を飲むのは法律違反ではありませんでした。
当初、禁酒法推進派は飲酒自体も禁止しようと考えていましたが、禁酒法の反対派や穏健派に押され、妥協せざるを得ませんでした。
高貴な実験
禁酒法は「高貴な実験」と呼ばれることがあります。1920年代にアメリカ大統領だったハーバード・フーヴァー大統領が、禁酒法を以下のように表現したのが由来です。
「高貴な動機と遠大な目的をもった社会的、経済的実験」
この言葉を理解するには、「なぜ、禁酒法が成立したのか?」を振り返る必要があります。
なぜ、禁酒法が成立したのか?
圧倒的多数で憲法改正が可決
禁酒法は権力者が無理やり押し付けた法律ではありません。民主的なプロセスを経て成立しています。
そもそも、合衆国憲法改正には、上院、下院とも3分の2以上の賛成が必要です。
実際、
・上院は76%の賛成(65票:20票)
・下院は69%(282票:128票)
の賛成を得て、憲法改正を進めました。
文化的背景~アメリカ建国の父ピューリタンは戒律が厳しい~
禁酒法は1920年に突然成立したわけではありません。
禁酒法が成立したのには、歴史的な背景がります。
アメリカを建国したのは、イギリスからの移民です。キリスト教のプロテスタントの中でも、特に戒律の厳しいピューリタン(清教徒)が、宗教的自由を求めて新天地を目指しアメリカにやってきました。
1620年、最初にアメリカ大陸に到着した彼らは「ピルグリムファーザーズ」とも呼ばれています。
ピューリタンは戒律が厳しく、「酒を飲むのは悪いこと」という慣習がありました。なぜなら、酔っぱらっうと規律正しく生きられなくなるからです。
そのため、アメリカには古くから禁酒を求める動きがありました。
女性による禁酒運動は1800年代から盛んに~不健全な酒場への批判~
1810年代から禁酒運動が組織化されていきました。健康を害する過度な飲酒をいさめる、「節酒」を求める運動です。
特に標的にされたのは酒場です。なぜなら、当時のアメリカの酒場は「サルーン」と呼ばれ、売春とセットの堕落した空間だったからです。売春婦以外の女性は入ることができず、男性のための場所となっていました。
このような状況を改善するため、禁酒運動が活性化しました。
特に有名なのは、カンザス州のキャリー・ネイションの運動です。カンザス州は1881年に全国的な禁酒法に先立ち、州憲法としてアルコール飲料を禁止しました。アメリカ合衆国の州で最初のことです。
キャリー・ネイションは女性を集めて、「キャリー・ネイション禁酒法グループ」を作り、酒場(サルーン)に入り、アルコール販売をやめるように訴えました。ときには、酒のボトルを斧でたたき割る儀式を実行していたそうです。
このように、1920年に禁酒法が執行される以前から、アメリカ各地で禁酒運動が盛んになっていました。
時代背景~第一次世界大戦で物資が貴重に~
第一次世界大戦による物資不足も禁酒運動を後押ししました。
当初、アメリカは第一次世界大戦に参戦していませんでした。しかし、イギリスの船ルシタニア号が、ドイツの潜水艦により撃沈され、この船にアメリカ人128人が乗り組んでいました。いわゆる「ルシタニア号事件」です。
この事件がキッカケとなり、アメリカ人のドイツへの反発感情が高まり、第一次世界大戦に参戦したと言われています。
アメリカがドイツと戦闘状態に入る1917年頃には、アメリカ国民の愛国心が高まると同時に、禁欲的な生活を強いる社会風潮が広まりました。なぜなら、戦争になると物資や食料が不足するためです。
第一次世界大戦への参戦は、アメリカにとって「正義のための闘い」でした。正義のために、国民に禁欲を強いる禁酒法が成立する、という大義が立つようになりました。
また、当時のアルコールの製造業者のほとんどは、ドイツ系の移民でした。反ドイツの感情も、禁酒法成立を後押ししました。
憲法改正の反対意見は少なかった
禁酒法の根拠となる、憲法18条修正への反対は少なかったと言われています。少なくとも、組織的な反対は起きませんでした。
この事実からも、当時のアメリカは国民感情として、禁酒を進めようとしていたことが分かります。
産業革命の影響も
19世紀にアメリカは産業革命がはじまり、近代化が進みました。この、産業化する社会と、プロテスタントが持つ倫理である「勤勉」「素面(しらふ)」がマッチしました。
特に企業家にとっては、生産効率を上げるために労働者の飲酒量を減らすことは重要事項でした。
なぜなら、週末に飲みすぎて、事故が起こりやすく効率があがらない「ブルーマンデー(ゆううつな月曜日)」を避けられるからです。
アメリカ禁酒法時代も、アルコールは飲まれていた
ストックしてあるアルコールの飲用は合法
上で説明したように、禁酒法はアルコールの製造、販売、運搬を禁止したものであり、飲酒は禁止していませんでした。
そのため、禁酒法が成立する前に、資産家の個人や、飲食店は大量の酒を買いストックしました。ストックしてある酒を飲むのは合法だからです。
酒を買い占めた人は、パーティーを開きアルコールを楽しんでいました。スコット・フィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」には、禁酒法時代のパーティーの様子が描かれています。
スピークイージー ~違法酒場が増える~
一方で、違法な酒場も急増しました。ニューヨークやシカゴなどの大都市では、従来の酒場が一店しまると、違法酒場が二店あらたにできる、とも言われました。
もちろん、違法ですので大っぴらにアルコールを頼むことはできません。小声でアルコールを注文するわけにはいきません。アルコールを、ひそひそ声で注文する様子を表し、違法酒場は「スピークイージー(Speakeasy)」と呼ばれました。
酒の密売がもうかる|ギャングの横行
禁酒法によりアルコールの製造、販売が禁止されたことにより、お酒の値段は上がりました。そして、お酒の密売が儲かることに目をつけたギャングが急増しました。
1880年代以降にアメリカにやってきた「新移民」が酒の密売を担う
当時、お酒の密売を担っていたのは、「新移民」と呼ばれた人々です。
1880年以前にアメリカにやってきた移民は「旧移民」と呼ばれます。旧移民はイギリス、ドイツ、北欧など西ヨーロッパ、北ヨーロッパからの移民です。彼らは英語を話し、見た目も似ているため、アメリカ社会になじみやすかったです。
一方、1880年以降には、イタリア、ロシアなど南ヨーロッパ、東ヨーロッパからの移民が急増します。「新移民」と呼ばれる彼らは、英語を話せず、見た目も異なるため、アメリカ社会に溶け込めませんでした。
その結果、新移民には失業者や貧しい人が多くいました。
酒の密売を担っていた多くは新移民の中には多くの富を得た人もいます。いわば、酒の密売が「アメリカン・ドリーム」だったというわけです。
もっとも有名なのはアル・カポネです。シカゴを中心に酒の密売を取り仕切り、2500万ドルもの資産を得たと言われています。アル・カポネの両親は1893年にイタリアのナポリから移住してきた新移民でした。
1920年代はアメリカの大繁栄時代に
禁酒法が成立した後、1920年代のアメリカは大繁栄時代を迎えました。GDPが毎年5%も成長する好景気を迎えました。工業生産高も60%伸びました。
自動車や家電製品などに導入された、流れ作業による大量生産方式は、商品の価格を下げて消費ブームを引き起こしました。自動車の普及にともない道路の建設が進められ、都市の中心部から郊外へも延びていきました。
禁酒法賛成派は、「禁酒法が経済発展をもたらした」と大々的に宣伝しました。
もちろん、好景気を支えていたのは多くの要因があります。
しかし、「禁酒法により労働者の生産性が高まった」というのも、アメリカの大繁栄を支えた一因であったと考えられています。
アメリカ禁酒法の終わり
アメリカ人の禁酒法の見方
禁酒法に対する、当時のアメリカ人の感覚を表したことばがあります。新聞記者が書いたとされる風刺です。
禁酒法はひどい失敗だ。
けれど我々はそれを好む。こいつは止めるつもりのものも止められぬ。
けれど我々はそれを好む。こいつは汚職と堕落のしっぽを残した。
こいつはわが国を悪徳と犯罪で満たした。
こいつは一文の値打ちもない。けれども我々はそれに賛成する。
(引用:禁酒法と民主主義)
このように、多くのアメリカ人は、「禁酒法の理想は立派だ」と考える一方、「現実には禁酒法はうまくいかず、人々に法律に対する不信の念を抱かせてしまっている」と感じていたようです。
禁酒法廃止のトライ|一度目は失敗に
禁酒法の執行後、闇酒場やギャングなど、法律違反が日常化してしまいます。そのため、次第に禁酒法廃止を訴える人が出てきました。
しかし、禁酒法廃止は簡単には進みませんでした。
1928年に大統領候補となった民主党のスミス候補は、禁酒法廃止を主張していました。
しかしながら、この大統領選では禁酒法継続を訴えるハーバード・フーヴァーに敗北してしまいます。
また、議会も禁酒法維持を望んでいました。
上院の83%、下院の76%が禁酒法継続に賛成でした。これは、禁酒法成立時の賛成率よりも高い数字です。
世界大恐慌が禁酒法廃止のキッカケに
ところが、1929年10月24日、ニューヨークの株式市場が大暴落し、状況が変わります。いわゆる「世界大恐慌」のはじまりです。
アメリカの景気は大繁栄から、一気に大不況へと突入しました。街には失業者があふれかえりました。
このような時代背景のもと、次第に禁酒法の緩和をもとめる声が大きくなります。なぜなら、アルコールの販売を許可すれば税金をかけられるようになり、その税金で失業者を救えるようになるからです。
禁酒法のもとでも密造酒が飲まれていましたが、建前上は法律で許可されていないため、税金をかけられませんでした。
ルーズヴェルト大統領が勝利し、禁酒法を廃止に
1932年11月8日、民主党のフランクリン・ルーズヴェルト候補は、現職のハーバード・フーヴァー候補と大統領選を争いました。ルーズヴェルトは禁酒法廃止、フーヴァーは禁酒法維持とみられていました。
その結果、ルーズヴェルトは2280万票 対1500万票でフーヴァーを破り大統領に当選しました。
ルーズヴェルトの勝利により、一気に禁酒法廃止へと動き出します。大統領就任は1933年3月4日でしたが、それ以前の1933年2月に禁酒憲法の廃止が議会で承認されました。
禁酒法の廃止は、
上院 63:23(73%)
下院 289:121(70%)
と3分の2以上の支持を得ました。
下の図を見ると、禁酒法賛成から反対に、一気に振り子が振れた様子がわかります。
アメリカ全土で禁酒法が廃止されたのは1966年
アメリカ合衆国全体の禁酒法は1933年に廃止され、その後各州でも禁酒法を徐々に廃止していきました。
最終的にすべての州で禁酒法が廃止されたのは1966年のことです。最後はミシシッピ州が禁酒法を廃止して、アメリカ全土で禁酒法が廃止されました。
アメリカ禁酒法がもたらしたもの|ポジティブ面とネガティブ面
ここまで見てきたように、禁酒法は一部の極端な権力者が強引に推し進めたものではなく、アメリカ国民が民主的なプロセスで採用したものでした。
結局、禁酒法がアメリカにもたらしたものは何だったのでしょうか?
禁酒法時代のポジティブな側面
- 経済が発展した
- 男女平等が促進された
- 新たな文化が生まれた
経済が発展した
禁酒法時代の1920年代、アメリカは大繁栄時代となりました。この時代のキーワードは「成長と豊かさ」です。「狂騒の20年代」とも言われています。もちろん、経済発展を支えたのは多くの要因があります。
しかし、禁酒法により労働者に「勤勉」の精神が浸透し、生産性が高まった、というのも一つの要因だと考えられています。
違法な酒場や密造酒の影響で、「禁酒法により、かえって飲酒量が増えた」という人もいるようですが、実際には禁酒法によりアルコール消費量は半減しています。
新たな文化が生まれた
「禁酒法時代」と聞くと、禁欲的な時代をイメージしますが、実際は戦争からの解放と経済発展により、享楽的な生活を楽しんでいました。
その結果、新しい文化が生まれます。
1920年代は「ジャズ・エイジ」とも呼ばれています。1910年代に300万人以上の黒人(アフリカン・アメリカン)が南部から北部に移動し、ジャズは1920年代に人気を集めました。主にニューヨークやシカゴなどの大都市のことです。人々はナイトクラブやダンスホールでジャズの生演奏を楽しみました。
さらに、経済発展の影響でラジオが普及します。ラジオを通して、ジャズを聴く人が増えたと言われています。
男女平等が促進された
1920年に女性への参政権が認められました。その結果、女性の政治的、社会的な活動が積極的になりました。また、家電製品の普及により、家事から解放される女性が増え、外出する時間が増えました。
このような背景のもと、女性の飲酒に対する態度も変わりはじめます。
禁酒法以前は、酒場(サルーン)に入るのは男性のみでした。なぜなら、酒場と売春がセットになっていたからです。
禁酒法時代の「もぐり酒場」は、これらの伝統を打ち破りました。表向きは高級レストラン、高級ホテルの店、会員制の高級店などが増えました。高級店が増えたことにより、心理的に女性が酒場に入る障壁を下げたようです。
その結果、酒場でデートを楽しむなど、禁酒法以前では考えられなかった文化が浸透するようになりました。つまり、皮肉にも禁酒法により女性がお酒を楽しむようになり、男女平等が促進された、というわけです。
禁酒法時代のネガティブな側面
反対に、禁酒法時代にはネガティブな側面もありました。
- 法律違反が日常化した
- 密造酒が広がった
法律違反が日常化した
禁酒法成立後、もぐり酒場や個人で密造酒を製造する人が急増します。もちろん法律違反ですが、数が多すぎて全てを取り締まることはできませんでした。
警察にわいろを渡し取り締まりを逃れる違法な酒場も増えていきます。
その結果、法律違反やわいろが日常化していきました。
理想は立派な「禁酒法」でしたが、かえって人々の倫理観を損なう事態となってしまったというわけです。
密造酒が広がった
禁酒法時代に密造酒が盛んになりました。密造酒の中には質の悪いお酒も多く、健康被害も多くでました。
飲用のアルコール(エタノール)を製造することは禁止されていましたが、産業用にメタノール合法的に生産することができました。このうちの一部が、違法に飲用アルコールに転用されていました。
メタノールはエタノールと似た化学物質ですが、飲むと非常に危険です。失明したり、命を落としたりします。
そのため、メタノールが含まれる質の低い密造酒を買った人の中には、健康を崩したり、亡くなったりする人がいました。
1920年代後半には、変性アルコールが原因で毎年4000人以上が死亡しました。死亡者の多くはニューヨーク市近郊の方で、メタノール中毒が原因だったと言われています。
まとめ|アメリカ禁酒法の教訓
禁酒法の精神は崇高なもので、まさに「高貴な実験」だったと言えるでしょう。
しかし、倫理観や「べき論」の通りに人は行動できません。密造酒の横行や、憲法や法律違反の状態化など多くの副作用が起こり、廃止されました。
現代の私たちから見ると極端に見える禁酒法は、完全に民主的なプロセスで成立しています。禁酒法の成立から廃止のプロセスは、アメリカという国を理解するのに役立つでしょう。
さらに、アメリカの文化について知りたい方は以下の記事も参考にしてみて下さい。
⇒アメリカ文化の特徴といえば? ビジネスで知っておきたい日本文化との違い
異文化理解の本質を理解する
アメリカ禁酒法以外にも、文化による違いが多く存在しています。
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